思い出される川崎劇場

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川崎劇場コラム

山根  ●会社員

そう言われた野球場がその昔あった。
パリーグのロッテの本拠地として使われたのが最後で、ロッテが千葉県幕張に本拠地を移してからは、他の競技場として使用されているとのことである。
この野球場は、プロ野球好プレー、珍プレーにはかならずと言っていいほど登場する球場でもあった。
私自身は確かに一度も行ったことすらないのであるが、とにかくテレビ画面からもその雰囲気が分かるのだ。
先ず狭い球場であること、お世辞にも綺麗な球場とは言えそうにもないこと、あのような球場で試合をせざるを得ない選手たちは不幸としか言いようがないのだ。

旧広島市民球場も狭く汚い球場だった。
学生時代、その市民球場で私は切符切りと場内案内のアルバイトをしていた。
4時に集合して点呼を受けた後は、三塁側ベンチで守備練習を見学させてもらっていた。
その当時は、ノッカーは広岡コーチ、ノックを受けるのは山本浩二選手、衣笠幸男選手と言うところだった。
私の記憶では、とにかく巨人戦だけは8時くらいまで声をからして場内案内に汗を流したものである。
その旧市民球場は広島市の中心部に位置し、広島オフィス街および飲み屋街に隣接していたのだから、仕事を終わって駆けつける人たち、カープの優勢を知って
飲みを切り上げて駆けつけて来る人と人種は様ざまだった。
川崎球場

ちょっと脱線してしまったが、川崎球場がよく好プレー珍プレーの舞台になったのにはそれなりの理由がある。
ガラガラに空いた外野席で、若い二人が自分達の世界に入り込んでいるシーンが映し出されたり、将棋を打っているシーンがあったりと、観客もやりたい放題なので
あった。
ただ、そんな川崎球場がもっとも観客を集め、全国のプロ野球ファンの注目を集めた日があった。
いま調べて確認したところでは、昭和63年10月19日(通称10・19)ロッテ対バッファローズのダブルヘッダーの時である。
そのダブルヘッダーで近鉄が2連勝すれば、その段階でパリーグの優勝が決まると言うものだった。
第1戦目は近鉄が勝利し、あと1勝となるところで最大限の盛り上がりをみたのだった。
確かニュースステーションの時間帯になったところで、そのニュースステーションの時間枠の中で野球中継を全国に向け流し続けたのだった。
ロッテ対バッファローズのダブルヘッダー
そんなことを知らない私は帰宅途中自動車のラジオの実況放送に釘付けになり、自宅近くの駐車場に車を駐車させた後からもそのラジオの放送に噛り付いて
いたのだった。
試合の結果は、ダブルヘッダーの場合の試合時間制限のために第2試合の延長戦が10回までとなり、近鉄はその日、1勝1分けとなりリーグ優勝を逃したのだった。
近鉄の勝利がなくなった第2試合10回の裏、最後の守りにつく近鉄の選手の中には勝ちがなくなった以上守っても仕方ないと言った雰囲気もなくはなかったようで
あるが、その時に確か梨田選手がみんなを促して最後の守りのためにベンチから飛び出して行ったのだった。
テレビ画面では守備につく大石選手の姿が大きく映し出されていた。その瞬間全国の野球ファンの多くは涙したはずである。
なお、その悔しさを胸に翌年リーグ優勝を果たしたのだった。