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第四章「ライカの戦後からの復活!」

コラム 独り言 この記事は約 3 分で読めます。 61 Views

レモン ●会社員 (40)

1945年5月、欧州での戦火が消え、これより少し前に米軍占領下になった、ウエッツラーのエルンストライツ社は、生産を開始します。当初米軍占領下であったイエナは、改めて旧ソ連軍の占領下となり、カールツアイス社はイエナ(東側)とオーバーコッヘン(西側)に分かれ、東西統一後1マルクで、東側カールツアイスイエナは、西側カールツアイスオーバーコッヘンに吸収されると言う結末を迎えます。1945年に大空襲を受けたドレスデンのツアイスイコン社は、苦難の道を進みます。戦後すぐのライツ社は、資材の欠乏などで戦前の品質まで復活しませんでした。初期のIIIC戦後型のめっき部に、さびが多いのはこのためです。戦後に米軍占領下になったことでライカに変化が現れます。目立った変化は、シャッタースピードのBが戦後の英語表示になった事です。ちなみに戦前はドイツ語表記のZでした。もし、戦前に発売されたか戦後かの区別をしたいときは、ここを確認してみてください。(注意!ただし、中には当てはまらない物がありますので、参考までに。)
1950年代に入り、ドイツ国内も落ち着きだし、カメラの品質も戦前の物に戻りました。約10年のブランクを経て、満を持して新型IIIFが発売されました。写真界の流れが変わったことを受け、シンクロ同調機構が装備され、ストロボだけではなく、フラッシュバルブも各種対応になり、その中にはヨーロッパやアメリカのメーカーだけではなく、日本のメーカーも対応表の中に含まれていました。ただし、使うフラッシュバルブによって、対応表と上カバーに刻印されている数字を合わせるという煩雑さがあり、製造上のバラツキもはっきりする程だった様です。その一方で現在、万能レンズの名を得たズミクロン50ミリも発売されIIIFが開花した時代でした。

戦後のライカの快進撃が、ここから始まり、戦前のライカに何とか追いつきかけた日本のメーカーは、また追い越されます。しかし、朝鮮戦争でのニコンの高評価が、アメリカ市場でのライカの後姿を見せてくれます。しかし、そんなことは関係なくライカは確固たる地位を得て、進撃を続けますが、とんでもないところから横ヤリが入り始めます。ドレスデンで芽吹き、東側が育てた一眼レフ(エキザクタ)が、ヒタヒタと追いかけ始めます。アルフレッドヒッチコック監督の名画“裏窓”でジェームズスチュアート扮する、骨折で自宅療養中のカメラマンが覗いていたのは、一眼レフ(エキザクタ)でした。モナコの王妃になった故グレースケリーの出演した最後の作品“上流社会”でカメラマンが持っていたのは、ローライフレックスやライカではなく、日本のメーカー、日本光学製ニコンS2でした。 4年後の1954年、ライカにとっても日本のメーカーにとってもターニングポイントと呼んでもいい、ライカM3が発売されます。       

次回(第五章)に続く!

 

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