カープについて話をするにしても、どの辺りから話をすれば良いものかと考えながら学生時代の事を思い出していた。
広島の大学時代2年生だった頃のことだと思う。旧市民球場の学生アルバイトは切符切り、場内案内、売店店員と言った
ところだと思うが、その男子部門を仕切っていたのが私の通う大学の教育学部中学教員課程であり、その中心となっていたのが
私の知り合いだった。当時、学生でもあって部屋にテレビなどない中ではプロ野球の中継放送など見ることもなかったので、
特定の球団のファンになるということもなかったのだ。強いて言えば、実家のテレビでよく見た巨人くらいのことになる。
その知り合いから旧市民球場のアルバイトをやってみないかとの誘いを受けたのだった。アルバイトは午後4時半に球場入りして試合終了までが
勤務となる。延長戦となって10時を越えるとバイト代が一定額上乗せとなるとの話だった。バイトの内容は入場口での切符切りか
場内案内である。カープがホームで試合をするのは全日程の半分、さらに一部広島市近郊での試合開催もあるから
それより少なくなる。結局、特にバイトをしていなかったからだと思うが球場バイトを始めることとなった。
4時半に球場入りして点呼を受けてから、いつも3塁側ベンチでカープの守備練習を見ていた記憶がある。
ノッカーは広岡コーチ、受ける側は山本浩二、衣笠祥雄両選手だった。そうこうしている内、相手側のチームが入って来る前にベンチを出て
勤務場所に向かった。今から考えれば随分とのんびりとしていたバイトであった。切符切りは特別何があるでもなく、場内案内で記憶が
残っているのは巨人戦の時だけは随時押し寄せるファンの為、座席の案内は8時くらいまで続いた。
あの時代のカープファンと言えば、いわゆる男と言うかオジサンが主体で野次もそれほど気の利いたものはなく、まさか今日のカープ女子の出現など
到底想像すら出来る状況ではなかった。
私が大学一年の頃、父親もちょうど転勤して広島支店で働いていた。私と同じで、テレビの影響からかプロ野球と言えば巨人ファンだった。
ただ、広島支店の中では、決して自ら巨人ファンだとは口にすることはなかった。そんな親父が広島に転勤して来て早々、次のような愚痴を
口にしていたことをはっきりと覚えている。「広島カープが負けた次の日は本当に仕事がやりにくい。みんな元気がないんだよ。その代わり
、カープが勝った次の日はみんな元気がいいんだよ。本当に大変な街に来たもんだ。」と。私も社会人となって最初に2年間、広島支店に勤務して
いたが、タクシーに乗る度に運転手の口から出てくるのはカープの話である。昨日は巨人をやっつけたとか、とにかく目的地に着くまで、その話は続いた
ものである。
いつの間にか、何の疑いもなく巨人ファンになっていた私ではあるが、転機は突然訪れた。今から23年前の頃のことである。
そして新しい球団が何故カープだったのかについては自分自身定かではない。
ただ、当時何かのテレビ番組でカープの松田元オーナーが話されていた言葉を思い出す。「野球人としては決して言ってはいけないことでは
あるが、チームを応援するファンとしての喜びは優勝だけとは限らず、カープに入団して来る若い子たちが一軍での活躍を夢見て鍛錬を重ねて行く、
そんなうしろ姿を後押ししながら成長の過程を見て行くのもファンなのではないか。」そんな話をされていた。
松田オーナーの言葉が決め手になったのかどうかまでは分からないが、その頃からカープのファンになっていたのだった。
ただ、それから長い間悔しいシーズンを繰り返すこととなるのだ。
旧市民球場はいつもガラガラ。それは神宮においても同じで、試合を見たければ、当日の試合開始直前にチケット売り場の前に立ってもいつでもチケットを
手にすることが出来た。内野指定B席のチケットを手にして12番入り口から球場入りし指定の番号を気にすることなく、適当に空いている席に座っては
先ずはビールを注文する。確かに夏の昼間の温もりが残るスタンドに座って冷えたビールで乾杯すれば、一日の疲れも吹っ飛ぶというものである。
ガラガラとは言ったが、外野席でスクワット応援するカープファンの熱さにはいつも勇気をもらっていたのも確かだ。
ただ、一番残念に思っていたのは、ガラガラの球場でプレーをする選手たちに申し訳ないと言う思いだった。
Bクラスが指定席のようなカープ、勝率5割が壁となって浮上できないカープ、そんな世界から抜け出せないでいた日に、思いをはせるのは背番号15黒田さんの
カープ復帰だった。
毎年オフシーズンになると黒田さんの復帰を願い、そんな情報をどこかに見つけられないかとニュース欄を漁ったものだ。
デマ情報に踊らされたこともあった。そんな長い長い押し殺したような季節の先にあったのが、26年の黒田さんの広島復帰発表だった。
広島復帰の一報はヤフーニュース欄からだった。とにかく息子に電話して喜びを分かち合った。
長く待った甲斐のあった瞬間だった。新井さんも帰って来て、技術的にも精神的にも大きな広島の推進力となることは間違いなかった。
そして広島復帰から1年後四半世紀ぶりのセリーグ優勝を成し遂げるのだった。それは、カープファン歴23年の私にとっては初めての優勝だった。
それまでは、自分が生きている内にカープが優勝するなんてやっぱり無理だよなんてずっと思ってた。だからと言って、カープを応援する気持ちには何ら変わりは
なかった。神宮で野球巧者のヤクルトに負け続けるカープを何度も見た時期もあった。そんな時はレフトスタンドで大きな声で応援するカープファンに力と
勇気をもらった。また3塁側スタンドで応援する女性が、負けて帰って行く選手たちに向かって「ドンマイ、ドンマイ!明日!明日!」と、選手たちを
鼓舞する大きな声にも勇気をもらった。
そんな時代を超えて、井上あさひアナウンサーが使った「カープ女子」が全国区となり、あらゆる球場で赤い旋風となり大きなうねりとなって今に至っている。
タイガースの聖地、阪神甲子園球場の左半分が赤く染まった、あの光景は今までには考えられないことである。
それは、東京ドームBUT 西武ドームでも同じである。
赤いうねりは全国に飛び火し、どこの球場に行ってもレフト側は真っ赤に染まるのだ(西武と札幌はライト側)。そして選手達を鼓舞し続けている。
この赤いうねりが永遠であれと祈って今日は筆を置くこととする。