山村里子 ●OL (26)
JR中央線甲府駅に降り立った私たちを迎えてくれたのは、
盆地を遠巻きにした秋色の世界でした。
彼と一緒になってちょうど一年。
大学で知り合い卒業後すぐに結婚、今は共稼ぎの毎日です。
歴史好きの彼と文学好きの私、そんな二人の共通の楽しみは
思いつくままに出かける今回のような旅なのです。
甲府駅前からバスに乗って、昇仙峡に向かうことにしました。
昇仙峡入口でバスを降りて、長潭橋を渡り天鼓林を通過し仙娥滝への
ハイキングコースに挑戦。
目の前にひろがる鮮やかな色彩の世界に二人は心の高ぶるのを
感じていました。
「来てよかったね」私のそんな声に彼もうなずいて見せてくれました。
「今夜の宿は僕が手配しておいたから、君のためにね」
そういう彼の目はなぜか得意げでした。
あとになってその理由を知ることになるのですが・・・。
湯村温泉郷・旅館明治が彼の手配してくれた宿。
部屋に通されて、「これを見てごらん」と言う彼に促されて
目をやった先にあった本を手にとってびっくり。
それは太宰治の本でした。
「これって?」そう言いかけたところで、彼は
「君には内緒にしていたけど、あの太宰治は昭和の17年、18年の一時期、
執筆のためにこの旅館に逗留していたことがあるんだ。」
「せっかく甲府に来たんだ。太宰治ゆかりの宿で一晩を過ごすなんてのもいいかと思ってね」
私は彼に感謝すると同時に、旅をする喜びが大きくふくらんだ甲府・湯村郷での一夜となったのでした。
(この事はあとになって分かったことなのですが、太宰治の著書の件は彼が旅館の方に無理を言って用意してもらったとか。通常は毎年6月の一ヶ月間だけ各部屋に用意されるのだそうです。)